HopiHopi日記

読書日記(書評 ブックレビュー 読書感想文)に雑記少々。本を読んで、いろいろ考えます。

Freak Out !/『FRANK−フランク−』

天才とは、過剰ではなくて欠落でないかと思う。それ無しでは生きていけないから、空白を埋めるために必死で動員した様々なモノが結晶化して、それがやがて天才と呼ばれるものに変異するのではないか。

 

映画『FRANK−フランク−』を見て、そう思った。

 

物語の中心人物は、ハリボテの被り物を決して取らないフランク(マイケル・ファスベンダー。彼は圧倒的な音楽の才能を有するものの、その奇異な外観も手伝ってか普通の人からは全く理解されず(そりゃ、24時間被り物してたら、ただの変人にしかみえない)、売れないバンドでその日暮らしをしている。しかし、バンドのメンバーだけは彼に心酔しており、メジャーになることよりも、彼の音楽世界を表現することに心血を注いでいる。カリスマなのである。

 

ある日、バンドのキーボーディストの自殺騒動をきっかけにフランクに誘われメンバーになったジョン(ドーナル・グリーソン)はレコーディングのため、彼らと共同生活を送ることになった。作曲家になる夢を諦めきれずサラリーマンと二足のわらじを履いていたジョンは、千載一遇のチャンスと奮起するが、エキセントリックなバンドメンバーからは音楽センスを認めてもらえずお荷物扱い。

 

そんな中、ジョンがバンドのレコーディング風景を密かにyoutubeに投稿していたことがきっかけで、アメリカの人気フェスに招待された。ジョンとフランクは気の進まない他のバンドメンバーを宥め、フェスに参加することになったがそこで事件が勃発する。

 

物語は終始ジョンとバンドメンバーの対立を描く。いや、ジョンがバンドメンバーから毛嫌いされ、馬鹿にされている様子を描く。ジョンはアーティストとして有名になることを夢見ている”普通”の青年だ。物語においては、残念なことに、音楽的センスゼロのトラブルメーカーという役割を振られており、彼のアドバイスに従ってアメリカのフェスに参加することがバンド崩壊の序曲となる。

 

それとは対照的にバンドメンバーはフランクの音楽的才能を尊敬し、彼の音楽活動に携われることを誇りにしている(ように見える)。フランクほどではないが、彼らもどこかそれぞれの仕方で頭のネジが緩んでいる。凡人の金太郎飴状態のジョンとソリが合うわけがない。

 

恐らく、問題はジョンが彼らの音楽性を理解することができないことにあるのだと思う。少なくても、彼もフランクに圧倒的にオリジナルな才能があることは分かっている。だからこそ、仕事を投げ打ってまでレコーディングに参加したのだ。しかし、その才能が何たるかを理解することができない。ある料理が美味しいのは分かるが、なにが美味しいのかが分からないのだ。どの食材をどのように調理すれば美味しくなるのかが分からないのである。

 

レコーディング中、フランクはジョンに「限界ギリギリまで行け。自分を追い詰めろ」というニュアンスのことを言う。悲しいかな、凡人のジョンには自分を限界まで追い込むことはできなかった。

 

それも当然である。冴えないけど、はたから見るとそれ程酷くない人生を送ってきた彼の身体は「限界」という裂け目を飛び越えるには余りにも重い。その裂け目を飛び越えることができるのは、人生において価値あるものを手に入れることができなかった哀れな人間だけだ。そんな虚ろな人間だけが、「天才」と呼ばれるものに手をかけることができる。彼の手は空っぽでなければならないのである。

 

物語の最後でフランクが歌う曲の美しさと物悲しさは、彼が天才と引き換えに失ったモノの大きさを僕たちに教えてくれる。彼の心の空白を埋めることができるのは、美しい旋律だけなのである。

あの日あの時あの場所で君に会えなかったら。/内田樹 『街場の戦争論』

内田樹さんの『街場の戦争論』を読みました。

 

なんだか内田さんの本をよく読んでるな、と思って数えてみると覚えているだけで今年7冊目でした。既読本の読み返しを含めると「月一」を遥かに上回るペースでウチダ本を読んでいました。

 

内田さんの著作は最近読んだ『憲法の「空語」を満たすために』あたりから、テーマが少し変わってきたように思いますが、この本も過去の著作にありがちな「いつもの話の変奏」だけではなく、新しい論件を扱っています。それがタイトルにもある「戦争」です。

 

内田さんが従来扱われてきたトピックの論理的帰結として、戦争に行き着くというのが、この本の勘所の一つです。著者が一貫して否定してきたグローバリズムと呼ばれる大きな世界史的うねりが日本を侵食し、その最終形態として必然的に戦争が引き起こす(あるいは戦争の危機が到来する)ということが、論理的にではなく、身体的な実感として理解することができました。言うまでもなく、私が感じた実感は恐怖と絶望ですが。

 

ところで、この本の中で私が面白いと思ったのは、「弱い現実」と「強い現実」という考え方です。それは過去に余程のことがあっても実現したであろう骨太の出来事と、ちょっとした偶然で実現しなかったかもしれない脆弱な出来事の違いを表す表現です。私の理解では例えば、あなたが社会人だったら、風邪でも引かない限り平日は職場に行きますよね、これが「強い現実」。一方、お昼ご飯に何を食べるかは、その日の気分だったり体調によりますよね、これが「弱い現実」。

 

内田さんは、この「弱い現実」と「強い現実」という考え方を使って歴史に「もしも」を導入することで、現代日本の異常さを明らかにします。この本で採用されたのは、日本がミッドウェー海戦後に講和して、230万人という太平洋戦争における戦死者の大部分を失わずに済んだら?という「もしも」です。この「もしも」を検証することを通じて、戦前の延長である仮想現実との比較から現代日本から何が失われてしまったのか、ということが浮かび上がります。

 

日本史上における「もしも」は本書をお読みいただくとして、私が興味を覚えたのは、自分史に「もしも」を導入するということです。内田さんは次のように書いています。

 

僕たちは実は「弱い」現実に取り囲まれている。あのとき「もしも」ああなっていなかったら、決して現代の日本社会には存在しなかったようなものが僕たちの周りにひしめいている。僕が周りを見回したときに「薄っぺらな感じ」がするものはたぶん「弱い」現実なのです。「これはきっと、どんなに歴史的条件が変わっても、変わらずここにあるはずだ」と思えるものにはたしかな現実感がある。僕は「弱い現実」の上には自分の軸足を置きたくない。わずかな歴史的条件の変化でたちまち変質し、消え去るようなものの上には立ちたくない。カタストロフを経由しても、政体が変わっても、経済システムが変わっても、支配的なイデオロギーが変わっても、それでも揺るがないものの上に立っていたい。そのような堅牢な地盤を探り当てるための知的エクササイズとして、僕は「歴史に『もしも』を導入する」ということをご提案しているのです。(p35〜36)

 

つまり、自分の過去の出来事を振り返り「弱い現実」と「強い現実」を峻別することで、自分の「核」や「柱」を見つけ出す必要があるのではないかということです。岐路に立ったときだけではなく、普段からブレない人生を送るためにしておくべき重要な作業だと思いました。

 

僕の話をさせてもらうと、大学時代に就職活動をテキトーにしてしまったので、数年後に転職活動をする羽目になりました。たまたま選んだ会社に恵まれたので転職するかとても迷ったのですが、どうも今している仕事が自分の人生の背骨だと思うことができず、仕事と人生について考えた時期があります。

 

今にして思えば、その時僕が転職を決意できたのは、自分の人生における「強い現実」が何かということに気づくことができたからだと思います。その時、「強い現実」に人生の軸足を置くことができたのは本当にラッキーでした。恐らくはただの偶然です。しかし、自分の人生に何があっても、この「強い現実」に人生の軸足を置くことができていれば、大きくブレることは無いように思うのです。この認識は今も変わっていません。

 

皆さんも何かに迷ったり、これから迷いたくないと思ったら、自分にとっての「弱い現実」と「強い現実」とは何かを考える「知的エクササイズ」がオススメです。 

街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)

街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)

 

 

ご無沙汰いたしておりました。

ここ1ヶ月ほど、パソコンが壊れたことで、ブログの更新を全くして無かったのですが、久方ぶりにはてなブログにログインしました。

ブログを書こうと思えば、携帯もタブレットもあるので、いくらでも書けるのですが、パソコンが無いとどうも物を書く気分になれなかったんですよね。不思議なものです。

何でかな?と考えたんですけど、一つには、キーボードが影響しているようです。僕はキーを押してる音とか感触が好きで、パタパタとキーボードを叩いてると小確幸(@村上春樹)を感じることに先日気が付きました。使ったことなどまるでないタイプライターが妙に愛おしいのもその影響でしょうか?

二つ目は、携帯やタブレット端末の使い勝手が悪いことです。我が家にあるのがiPhoneiPadだからか、どちらもHPからログインすると画面の構成が崩れてしまい、使い物になりません。

そうかと言ってはてなブログのアプリを使うと、一部の機能が使えずフラストレーションがたまるので、僕はメモや校正以外の目的で使うことは殆どありません(はてなブログを運営されている方、勝手申しますが、ご検討のほど)。

と言うわけで、今のところブログを書くのは、自宅のパソコンでゆっくりお茶でも飲みながら、というシチュエーションに限られます。

スマートフォンタブレット端末が主流となり、パソコン不要論まで聞こえる昨今ですが、旧型の僕は所謂パソコンが大好きです。タブレット端末にキーボード付けても、気分が出ないんですよね。あの筐体に全てが詰まってる感じが好きで、いろんな物を外付けするのはあまり好きではありません(まぁ、我が家のパソコンはDVDドライブが外付けですけどね)。

という文章を帰宅途中の電車で、携帯を使って書いておりますです、はい。

のび太のくせに生意気だ。/ジョージ・フリードマン『100年予測』

本書は今後100年間の世界の動向を予測したレポートだ。これは胡散臭い予言の書ではなく、地政学という地理的条件を中心に各国の現状を分析した結果、今後起こる蓋然性が高い事象を取りまとめた内容となっている。

地政学とは、世界について考え、将来の出来事を予測するための方法をいう。経済学には「見えざる手」という概念がある。〜(省略)〜地政学は見えざる手の概念を、国家を始めとする国際舞台の主体の行動に当てはめる。国家やその指導者たちによる短期的な自己利益の追求が、国富とはいかないまでも、少なくとも予測可能な行動をもたらすため、結果として将来の国際システムのあり方が予測可能になると考える。

この本に書かれている内容を一言で言えば、アメリカは今後100年に渡り世界の頂点に君臨する覇権国家で、今以上に強大な力を持つことになる、ということ。世界は100年経っても相変わらずアメリカ中心に回っているという、あまりパッとしない未来予測の本です。

この圧倒的な覇権は、アメリカが太平洋と大西洋という海の交通路を事実上支配していて、経済的・軍事的に圧倒的なプレゼンスを有していることに由来する。アメリカに刃向かおうものなら、海上封鎖され物資の供給を絶たれ、貿易船のみならず艦隊の航行は不可能となる。戦争において兵站を絶たれた国の末路は、第二次世界大戦期の日本に詳しい。そのため、向こう100年このパワーバランスは揺るがず、寧ろ宇宙を掌握することになるアメリカの強さは無敵の領域に達することになる(らしい)。

ここまで来れば、お分かりだろう。日本は大人しくこのジャイアンの軍門に下り、スネ夫ポジションを満喫するのが吉である。え、今だってそうだって?その通りです。

しかし、本書によれば、日本はいずれアメリカに喧嘩を売ることになるらしい。たまにのび太が逆ギレしてジャイアンに食ってっかかるアレでしょうか。勝てないのが分かってるのに喧嘩を売るんだよな、日本って。まぐれでロシアに勝ったくらいで、調子乗ってアメリカに行くくらいだからね。

日本、トルコ、ポーランドのそれぞれが、ロシアの二度目の崩壊後にさらに自信を深めたアメリカと退治する。これはまさに一触即発の状況である。これから見ていくように、この四カ国の関係が 二十一世紀に大きな影響を及ぼし、最終的に次のグローバルな大戦をもたらすのだ。(P23)

でも、毎回返り討ちにあう『ドラえもん』と同じで、のび太・日本は再びアメリカ・ジャイアンにこてんぱんにされる。それも完膚なきまでに。結果は分かってるんだから、よせば良いのに。

そんなわけで、本書を読んだ私は大真面目に提案する。日本はアメリカの51番目の州になるべきである、と。早々にアメリカの軍門に下り、出稼ぎ労働者よろしく本国にせっせと日本円を送金するの(そうなったら円は無くなってるだろうけど)。アメリカの財布として日本のプレゼンスを強化しろ。世界のいざこざについては対岸の火事を決め込んでアホ面していれば宜しい。数十年後には日系大統領が誕生しているかもしれないし。

しかし、それではスネ夫どころか、ジャイ子になってしまう。確かに、日本の武器はもう漫画くらいしか残ってないですけど。いくらなんでも、あんまりだ。


日本がどの様にアメリカにこてんぱんにされるか興味がある人は、是非本書をお読みください。固そうなテーマの割りに、実に読みやすい文章です。宇宙戦争とか突拍子もない話が出てきますが、今の自分を離れ、将来のことを考えて見るのも悪くないですよ。

100年予測 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

100年予測 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

文学賞って、一番取りやすいノーベル賞って本当なの?

先週はノーベル賞ウィークでした。青色LEDで日本人が物理学賞を受賞したり、憲法9条が平和賞にノミネートされたりと、今年も話題に事欠かない一週間でしたが、個人的には「村上春樹さんの文学賞受賞ならず」がビッグニュースでした。


村上さんとノーベル文学賞については、日本ではもう何年も前からお祭り騒ぎで、毎年発表後にファンの落胆した様子がニュースに映りますよね。僕もにわかファンの一人として、毎年期待しては別の方の受賞にがっかりしています(すみません。受賞された方に他意は無いのです…)。


でも、本当に村上さんがノーベル賞を取れないことは残念なことなのでしょうか?今回はこのことについて少し考えてみます。


まず、そもそも村上さんはノーベル文学賞を欲しがっているのでしょうか?本人が欲しがっているならいざ知らず、欲していないものを毎年勝手に外野が騒いでいるだけではないのかという気がしなくもありません。僕の知る限り、村上さんがノーベル文学賞が欲しい的な発言をしたのを、見聞きしたことはありません(まぁ、普通の常識人がそんな発言するとも思えないですけど)。


では何故本人が、少なくても公式に欲しいと言ってないものを受賞できなくて、僕たちは残念がるのでしょうか?一つには、一般的にノーベル文学賞が世界最高の文学賞だと信じられているからでしょう。少し意地悪く言ってしまえば、自分達が愛好する作家が世界一の称号を得るというのは、翻って見れば自分達の選択眼の正しさが証明されることになります。それも世界最高の権威のお墨付きです。自分はこれまでワールドクラスの作家の作品を読んできたのだ。単なるラノベやエンタメ小説とは違うぞ、と。高尚な作品に親しみ、時代を洞察してきたのである。やはり 、自分が読み続けてきただけのことはある作家であった、云々。


いずれにしても、ここで問題になるのは村上さんではなく、自分のプレステージ性です。その権威付けのモーメントとしての村上春樹であり、ノーベル文学賞なのです。多分に不順な動機ですね。無名の作家を読んでいるよりは、大作家の作品を読んでいる方が箔が付きますものね。その気持ち分かります。「何読んでるの?やだ、○○さん村上春樹なんか読んでるの?(自意識過剰だと思った)」よりは「村上春樹ノーベル賞取った人ですよね。文学お好きなんですね」の方が僕も嬉しいです。


僕は自意識過剰だから、言われても仕方ないですが、他の人たちはどうなんでしょうね。本当にそんなくだらない理由で毎年ノーベル文学賞の発表を注視しているのでしょうか。同じ自意識でも、もう少し微笑ましい理由の方もいるかもしれません。それは例の日本人だから、というやつです。日本人が世界の舞台で活躍すると、我がことのように嬉しいというような、柔らかいナショナリズムのことです。サッカーのことなんてまるで興味も無いのに、ワールドカップになると饒舌になる人っていますよね(あ、僕だ)。これも一つのナショナリズムだと僕は思うのですが、普段気にしていないのに急に価値観の最重要項目に「国」が出てくることがありませんか。ノーベル賞って、少なくても日本においてはナショナリズムを煽る構造になっているような気がしてなりません。


日本人がノーベル賞を受賞しただけで、何がそんなに嬉しいのでしょうか。ましてや国民栄誉賞とかって話になるのでしょうか。同じ日本人として誇りに思うってことだと思いますが、これって結構判断が難しいです。「日本人」とは誰か、というある意味でお馴染みの問題系にぶち当たるからです。


例えば、ノーベル物理学賞を受賞された中村修二教授はスピーチで、日本の研究環境や企業体質を批判して、「奴隷のようだ」とか「自由がない」と発言したそうです。彼は現在カリフォルニア大学に在籍し、自分はアメリカ市民だと公言するとのことで、どう考えても彼を日本人の枠で捉えることは難しいでしょう。日本に愛着をあまり感じておらず、アメリカに定住していると容易に想像できることです。ある意味で日本を否定する彼がノーベル賞を受賞して、我々は同胞が受賞したと喜べるのでしょうか。


で、話は村上春樹さんとノーベル文学賞です。極論を言えば、授賞を逃して残念なのは僕たち「日本人」です。村上さんではありません(勿論、ご本人も毎年面倒臭いから早く受賞したいと思っているかも知れませんが…)。勿論、僕も村上さんの小説世界が世界の人から認められるのは嬉しいですが、それはノーベル文学賞というラベルではありません。作家にとって重要なのは、どれだけ多くの人に読まれ、どれだけ多くの人が彼の物語に共感でき、どれだけ多くの人の人生に良い影響を与えることができたか、それだけだと思います(勿論、自分の描きたかった世界を完全に表現することができたことが最も重要だという作家や、とにかく有名になることや金になることを重視する作家もいますが、エッセイやインタビューを読む限り村上さんはそういう作家ではないでしょう)。だから、ノーベル文学賞を受賞するかしないか、というのは本来作家にはどうでも良いことで、僕たちファンも積極的にコミットすべき問題ではないと思います。


まぁ、でもその視点から考えれば、ノーベル文学賞という世界一有名な賞を取ることの意味はありますね。より多くの人に届く可能性が高いわけですから。でも、ノーベル文学賞作家という肩書きが一人歩きするのも怖いですね。それで、「村上春樹」を敬遠する捻くれ者がいたり、先入観が入って物語と適切に向かい合うことができない人が出てきたりするかもしれません。う〜ん、侮り難しノーベル文学賞

あらゆるものが消滅していく世界で、消滅しないもの/小川洋子 『密やかな結晶』

いきなり暗い話で恐縮ですが、僕はこれまで何度か理想的な死について考えたことがある。その中の一つで、老人性痴呆症かなんかになって何もかも忘れて、自分が誰であるかとか死ぬことについて思い煩うことなく、動物のように死を恐れずに迎えることができたら、それは悪くない死に方ではないかと思ってきた。

しかし、今回10年ぶりくらいに小川洋子さんの『密やかな結晶』を読んで、考えが変わった。どんなに惨めで苦しくても、最期の瞬間まで自分でいたいと思った。自分の記憶を抱えて死にたいと思った。記憶こそが、その人の人間性を形作るものだと分かったからだ。

小川洋子さんの小説は、夢の様な幻想的な話が多いけど、逆に細部の手触りはくっきりしていてリアリティがある。現実には絶対にあり得ないことが、確かなリアリティを伴って僕達の目の前に展開する。夢だとわかっていても覚めない悪夢の様に、目を背けることができない不思議な存在感があるような気がする。
 
『密やかな結晶』もそんな小川さんらしい小説で、平和で穏やかな暮らしにたびたび挿入される不協和音が次第に大きくなり、平凡な暮らしが徐々に侵食されていくのは小川さんの小説でよくあるモチーフだと思う。今回の不協和音は「記憶の消滅」。

小説の舞台は、どこにでもある普通の田舎町。海に囲まれた小島というロケーションが静かな生活を引き立ている。しかし、一見地味なこの島には普通じゃないことが一つある。それは、突然物が消滅すること。これまでに香水や鳥や帽子など少なくない物が、ある日突然消えてしまった。消滅が起こると人々はそれに関係する物を処分し、身の周りからその痕跡を消去し始める。それに合わせて徐々に記憶も減退していく。心にぽっかりとあいた空白だけを残して。

主人公の女性は、この「消滅」が日常として起こる島に暮らす小説家だ。彼女もまた島の人たちと同じく消滅によっていろいろなものを失い続けているが、黙々と小説を書き、知り合いのフェリーに住むおじいさんのところまで散歩に行くのが日課という平穏な毎日を過ごしている。

やがて物語は、島に記憶が消滅しない人達が居ることを明かす。彼らは秘密警察の目を逃れ、普通の人の中に紛れて暮らしているので、一見すると見分けがつかない。しかし、消滅を完全なものにするためにあらゆる手段を尽くす秘密警察は、彼らを見つけてどこかに連行してしまう。島の人達が恐れている記憶狩りだ。

平和な島に徐々に不穏な空気が漂い始める中、主人公の女性が密かな恋心を抱く出版社の編集者R氏が、記憶を失わない人であることが明らかになる。動揺する主人公は、R氏の身の安全を案じ自宅に匿うことを決意し、ナチスドイツからユダヤ人を匿うような緊張の日々が幕を開ける。彼女はおじいさんと協力して、R氏を秘密警察から守ることができるのか、というのが小説のあらすじである。

【ここから先はネタバレを含むので、未読の方はご注意ください。】

この後、島からは「チェーホフの銃」に則り、小説が消滅することになる。実在の『密やかな結晶』という小説の中で消滅する、架空の小説。更に、その架空の小説の主人公が執筆していた小説には、タイプライターに声が閉じ込められて喋れなくなる女の人が描かれていた。タイプライターを打てば打つほど声が吸い取られ、やがて完全に言葉を発することができなくなってしまう。声を失った女の人は徐々に気力や体力を失い続け、物語は女性の存在そのものが消えてしまうところで幕が下りる。

この小説内小説で声を失い存在そのものが消滅する女性は、もちろん主人公に対応している。声は小説=物語のメタファーとして、僕達にあることを告げる。小説=物語を失うと、人間は存在そのものが消滅するということだ。事実、島から小説が消えた後、島の人々は左足と右腕を失い、やがて存在そのものが消滅する。

しかし、人々が消滅する直前、最後の最後まで残っていたものは声だった。小説=物語こそ人間にとって本当に必要なものだと言っているかのようだ。誰かに聞いてもらうこと、自分が存在することを主張するものとしての声が、人間にとって最後に必要なものなのかもしれない。僕は、ここに、いるよ・・・。そして、小説=物語もまた、誰かに読んでもらうことを求めている。聞いてもらうことを求めている。小説は、作者が自らの存在証明として書いた物語を読んでもらい、承認して欲しいと訴えかけているようだ。

この小説=物語が生まれるために無くてはならいものが、記憶であり、その集合体としての心である。主人公の女性は小説の消滅後に、書きかけの小説を苦労して完成させることができた。小説という形式が失われても「物語の記憶は、誰にも消せない」のである。僅かでも記憶が、心が残っている限り、人は物語を紡ぐことができる。そして、人は物語という灯りを頼りに人生を歩んでいくことができる。たとえ、それが絶望の未来であっても。

冒頭の話に戻る。理想的な死とは何か。それは、死後も誰かの心に残ることだと思う。主人公の女性は消滅の直前までR氏と会話することができた。R氏の声を聞き、R氏に声を届けることができた。最期の最期まで、自分という存在をR氏に認めてもらうことができたから(そして自分の消滅後もR氏の記憶に留まることを信じることができたから)、彼女は透明な心で「死」を迎えることができたのではないか。

理想的な死とは何か。それは、死の直前に自分の人生を肯定できることだ。記憶が、物語が無い世界には、そのカタルシスは訪れないと思う。

密やかな結晶 (講談社文庫)

密やかな結晶 (講談社文庫)

金だけがすべてじゃないだろう?/平川克美 『移行期的混乱 経済成長神話の終わり』

日々、目にする不吉なニュースの数々。グローバリズム、長期デフレ、年金問題少子高齢化。或いは不可解な殺人事件や、ため息しか出ない政治・経済の不祥事。

 

いつの間にか「閉塞感」を感じるようになって久しい。自分の未来に対する漠然とした、しかし確かな実感の伴った絶望感。今が人生のピークなのではないか、という不安。今の時代を取り巻いている空気を「閉塞感」と表現するなら、それは突破することができれば明るい未来が待ち構えている「殻」のようなものでは無い。袋小路の様な、歴史の戻ることのできない行き止まりである。

 
平川克美さんの『移行期的混乱 経済成長神話の終わり』は、この「閉塞感」を考えるヒントを与えてれた。結論から先に言えば、この「閉塞感」は民主主義や資本主義という世界を覆いつくすシステムの、終焉の予感である。
 
彼は、2008年のリーマン・ショックを引き合いに出して説明する。曰く、リーマン・ショックについて世間で言われていることは、1929年の世界大恐慌に匹敵する規模の金融危機であるということだけで、「100年に一度の問題」とは極論すれば量や程度の問題である。つまり、資本主義というシステムの長期的な変動の一コマに過ぎず、これからも今までと同じ仕組みで世界が回っていくことを前提としているというのだ。
 
しかし彼は、リーマン・ショックはもっと大きな時代の転換点であると考えている。
それは世界の根本原理が揺らぎ、全く新しい時代の到来の過渡期に起こる「移行期的混乱」であると言うのだ。 
 
アメリカに始まった金融崩壊がその要因であるというようには考えるべきではないと思っている。金融崩壊は、いくつかある移行期的な混乱の中の一つの兆候を示しているに過ぎないと考えているからである。現在わたしたちが抱えている問題、つまり環境破壊、格差拡大、人口減少、長期的デフレーション、言葉遣いや価値観の変化などもまた、後期的な混乱のそれぞれの局面であり、混乱の原因ではなく結果なのである。(p43)
 
この失効しつつある世界の根本原理、あるいはシステムとは何か。平川さんは民主化資本主義であると言う。民主化とは、所謂政治システムのことではなく、人間一人ひとりが持っている自然な欲求を充足させるために自分の「権利を拡大していくプロセス」である。より良い生活を求める、この終わりの無いプロセスは、資本主義と出会うことで瞬く間に世界に広がっていくことになる。グローバリズムである。
 
資本主義とは、極論すれば金銭ですべての価値を比較考量する考え方である。そして、その判定は市場が下してくれる。時間も労働も、人間が持っているすべてのものは金の多寡で優劣が決まる。すべてのものは金と交換可能なのだ。それはつまり、金を持っている人間が一番偉いことを意味する。
 
僕たちは、より生活を求める民主化という権利獲得のプロセスを、金を稼ぐことに、或いは金を蕩尽することに置き換えてしまったのだ。金こそすべて。なんと貧しい世界だろう。この荒涼とした価値観は、さながらディストピアのようだ。勿論、生きるためには幾ばくかの金銭は必要だ。僕もしがない職で糊口をしのいでいる。しかし、金だけじゃないだろう、と言うのが本邦の伝統である。これは[第2章 「義」のために働いた日本人]に詳しい。
 
しかし、この「金銭一元的な価値観」を奉り、右肩上がりの経済成長を是とする資本主義が崩壊しようとしているのである。平川さんはフランスの人口学者 イマニュエル・トッドを引き糸に「民主化の進展」が人口の減少を招くことを例証する。つまり、民主主義と資本主義という世界を覆うシステムそのものが、人口減少を招来し、経済成長を停滞させているのである。
 
彼はこうした歴史的な転換点を前に、成長戦略に固執する日本を「身体は成熟したのに精神は幼いままでいる老人を思わせる」と評する。僕たちは時代の「閉塞感」を鳥のように飛び越え、心も身体も成熟した大人になることができるだろうか。それは、現代が「移行期的混乱」の只中であり、これまでのやり方は通用しないことを身をもって理解することから始まるはずである。
 
移行期的混乱―経済成長神話の終わり (ちくま文庫)

移行期的混乱―経済成長神話の終わり (ちくま文庫)