HopiHopi日記

読書日記(書評 ブックレビュー 読書感想文)に雑記少々。本を読んで、いろいろ考えます。

書物を焼く人間は、やがて人間を焼くことになる/レイ・ブラッドベリ 『華氏451度』

 
久しぶりに傑作に出会えた。本読みをしていて良かったと思う瞬間だ。人生を変えてしまうような本に出会えたときの記憶があるから、僕たちは新しい本を手に取ってしまう。次はどんな本と邂逅できるのかワクワクしながら、頁をめくる。
 
読書家なら知らない人はいないというレベルの本だが、僕は焚書をテーマにしたSFであることくらいしか予備知識を持たなかった。想像していたのと大分違う。ジョージ・オーウェルの『1984年』みたいな暗い話だと思っていたのだが、そこはかとなく漂うウィットの感覚がテーマの持つ重さを軽減していて、スリリングで一気に読みきってしまった。これは勿論作家の力量のなせる業だがそれだけではないと思う。訳が良い。僕が読んだのは最近出た伊藤典夫さんの新訳。この訳がレイ・ブラッドベリの世界観を引き立てているように感じたし、50年以上前の文章とは思えないくらいすーっと意味が染み込んでくる。Firemanを「昇火士」と訳すなんて、とびきりクールだ。
 

それにしても、『華氏451』は考えさせる本だ。

 
僕は小説は大きく分けて2種類あると思っている。物語の世界に浸るタイプと思考を促すタイプの2つだ。
 
物語の世界に浸るタイプは、その甘美な物語世界に没入し、それをありのままに受容するような小説のことだ。どんなに奇想天外な話でも、読者はその世界観を受け入れ、その世界の空気吸い込むことができる。主人公と同化し、主人公の目線で景色を眺める。圧倒的なリアリティがそこにあり、読者は頁をめくるだけでいい。エンターテイメント型、あるいは消費型の小説と言い換えることができるかもしれない。読者の価値観を揺さぶらず、読者は入ったときと同じ人間のまま、物語から出て行く。例えば、ある種のファンタジーなど(『ハリーポッター』とか)がこれに該当する。
 
それに対して、思考を促すタイプの小説は、読者の価値観を揺さぶり、読者が実際生きている現実に対して疑問を投げかける。存在そのものを不安定にするのだ。必然的にこのタイプの小説は読む前と読んだ後では違う人間になっている。体の組成が変化しているのだ。読書中、物語が執拗に挑発してくる。考えろ、考えろ、考えろ、と。今までの常識が異化され、これまでと同じように日常をすんなり受け入れることができない。一瞬判断が停止してしまう。これは先ほどの例に引き付ければ、純文学型、批判型の小説といえる。
 
華氏451』は勿論、後者のタイプだ。
 
この小説は、本の無い未来世界を描いた空想実験の話である。秘密警察のように本を見つけ次第焼き尽くすことを任務とする昇火士のガイ・モンターグ。彼は自分の仕事に疑問を持たず、焚書に明け暮れる毎日を過ごしている。しかし、ある日、何気なく持ち帰ってしまった本が、彼の運命を変えることになる。*1
 
この未来世界では、人々に物を考えさせないために本の存在を消去しようとしていることが明らかになる。政府や権力者に疑いを持たず、与えられるものを享受し消費するだけの存在、操り人形のような人間を作るために本を燃やしているのだ。昇火士のリーダー・ベイティーは言う。
「・・・省略・・・誰かを政治問題で悩ませて不幸な思いをさせるのは忍びないと思ったら、ひとつの問題に二つの側面があるなんてことは口が裂けてもいうな。ひとつだけ教えておけばいい。もっといいのは、なにも教えないことだ。戦争なんてものがあることは忘れさせておけばいいんだ。たとえ政府が頭でっかちで、税金をふんだくることしか考えていない役立たずでも、国民が思い悩むような政府よりはましだ。平和がいちばんなんだ、モンターグ。国民には記憶力コンテストでもあてがっておけばいい。・・・省略・・・不燃性のデータをめいっぱい詰めこんでやれ、もう満腹だと感じるまで"事実"をぎっしり詰めこんでやれ。ただし国民が、自分はなんと輝かしい情報収集能力をもっていることか、と感じるような事実を詰めこむんだ。そうしておけば、みんな、自分の頭で考えているような気になる。動かなくても動いているような感覚が得られる。それでみんな幸せになれる。なぜかというと、そういうたぐいの事実は変化しないからだ。哲学だの社会学だの、物事を関連づけて考えるような、つかみどころのないものは与えてはならない。そんなものを齧ったら、待っているのは憂鬱だ。・・・省略・・・」(p103)
お陰で人々はテレビやラジオから流れてくる中身の無いエンターテイメント番組で余暇時間を消費し、選挙になれば隣の人と同じ候補者に投票することになる。みんな同じで、みんな平和だ。物を考える必要はない。それは与えられるか、みんなに合わせればいいのだ。
 
この小説では、こうした生活を送ることで人々の記憶力が著しく減退していることが描かれている。短期記憶しか保持できない鶏のようだ。脊髄反射的に日々を暮らしている。もやは考える必要は無いからだ。モンターグと彼の妻は二人とも 最初に出会った場所を思い出すことすらできない。二人が出会った一番大切な場所すら覚えていないのだ。出発点が無い二人は何のために結婚生活を送っているのかすら分からない。*2
 
恐らく、考える力を奪われると、感情が無くなるのである。深く誰かを愛したり、将来を憂えたり、誰かに怒りを覚えたり、そんな人間らしい感情は考える力や記憶と関係していることを小説は描いている。だから、小説に出てくる普通の人々は感情の起伏が乏しく、ヘラヘラと毎日を無為に過ごしているのだ。
 
考えようによっては、理想的な社会かも知れない。争いや喧嘩もなく、人々は平和を享受している。しかし、心を無くした代償によって得られた"かりそめ"の平和がどうなるかは、小説を最後まで読めば分かる。戦争がすぐそこまで迫っていることを見てみぬ振りをした人々の末路こそ、この小説が教えてくれていることだ。「考えろ」と。
 
それにしても、この『華氏451度』で描かれている未来世界は、2014年の日本と見まごうばかりだ。
 
ん?ということは、現代の日本はディストピア…これ以上は止めておこう。

*1:それにしても、この小説のメタ構造をどう評価すればいいのだろう?一体誰が、いつこの小説を書いたのか?焚書が日常として起こっている未来世界に存在する小説。一つの仮説は、小説のエンディング後にモンターグが書いている、と言うものだ。モンターグの視点に近い3人称で書かれていることがその根拠である。そうであるならば、彼はハッピーエンドを迎えたということになるはずだ。

*2:考えることを始めたモンターグが、二人が最初に出会った場所を思い出すシーンがあるのが象徴的である。彼の妻は本を忌避し、考えることを恐れているため、大切な場所を思い出すことはないのだ。