HopiHopi日記

読書日記(書評 ブックレビュー 読書感想文)に雑記少々。本を読んで、いろいろ考えます。

あらゆるものが消滅していく世界で、消滅しないもの/小川洋子 『密やかな結晶』

いきなり暗い話で恐縮ですが、僕はこれまで何度か理想的な死について考えたことがある。その中の一つで、老人性痴呆症かなんかになって何もかも忘れて、自分が誰であるかとか死ぬことについて思い煩うことなく、動物のように死を恐れずに迎えることができたら、それは悪くない死に方ではないかと思ってきた。

しかし、今回10年ぶりくらいに小川洋子さんの『密やかな結晶』を読んで、考えが変わった。どんなに惨めで苦しくても、最期の瞬間まで自分でいたいと思った。自分の記憶を抱えて死にたいと思った。記憶こそが、その人の人間性を形作るものだと分かったからだ。

小川洋子さんの小説は、夢の様な幻想的な話が多いけど、逆に細部の手触りはくっきりしていてリアリティがある。現実には絶対にあり得ないことが、確かなリアリティを伴って僕達の目の前に展開する。夢だとわかっていても覚めない悪夢の様に、目を背けることができない不思議な存在感があるような気がする。
 
『密やかな結晶』もそんな小川さんらしい小説で、平和で穏やかな暮らしにたびたび挿入される不協和音が次第に大きくなり、平凡な暮らしが徐々に侵食されていくのは小川さんの小説でよくあるモチーフだと思う。今回の不協和音は「記憶の消滅」。

小説の舞台は、どこにでもある普通の田舎町。海に囲まれた小島というロケーションが静かな生活を引き立ている。しかし、一見地味なこの島には普通じゃないことが一つある。それは、突然物が消滅すること。これまでに香水や鳥や帽子など少なくない物が、ある日突然消えてしまった。消滅が起こると人々はそれに関係する物を処分し、身の周りからその痕跡を消去し始める。それに合わせて徐々に記憶も減退していく。心にぽっかりとあいた空白だけを残して。

主人公の女性は、この「消滅」が日常として起こる島に暮らす小説家だ。彼女もまた島の人たちと同じく消滅によっていろいろなものを失い続けているが、黙々と小説を書き、知り合いのフェリーに住むおじいさんのところまで散歩に行くのが日課という平穏な毎日を過ごしている。

やがて物語は、島に記憶が消滅しない人達が居ることを明かす。彼らは秘密警察の目を逃れ、普通の人の中に紛れて暮らしているので、一見すると見分けがつかない。しかし、消滅を完全なものにするためにあらゆる手段を尽くす秘密警察は、彼らを見つけてどこかに連行してしまう。島の人達が恐れている記憶狩りだ。

平和な島に徐々に不穏な空気が漂い始める中、主人公の女性が密かな恋心を抱く出版社の編集者R氏が、記憶を失わない人であることが明らかになる。動揺する主人公は、R氏の身の安全を案じ自宅に匿うことを決意し、ナチスドイツからユダヤ人を匿うような緊張の日々が幕を開ける。彼女はおじいさんと協力して、R氏を秘密警察から守ることができるのか、というのが小説のあらすじである。

【ここから先はネタバレを含むので、未読の方はご注意ください。】

この後、島からは「チェーホフの銃」に則り、小説が消滅することになる。実在の『密やかな結晶』という小説の中で消滅する、架空の小説。更に、その架空の小説の主人公が執筆していた小説には、タイプライターに声が閉じ込められて喋れなくなる女の人が描かれていた。タイプライターを打てば打つほど声が吸い取られ、やがて完全に言葉を発することができなくなってしまう。声を失った女の人は徐々に気力や体力を失い続け、物語は女性の存在そのものが消えてしまうところで幕が下りる。

この小説内小説で声を失い存在そのものが消滅する女性は、もちろん主人公に対応している。声は小説=物語のメタファーとして、僕達にあることを告げる。小説=物語を失うと、人間は存在そのものが消滅するということだ。事実、島から小説が消えた後、島の人々は左足と右腕を失い、やがて存在そのものが消滅する。

しかし、人々が消滅する直前、最後の最後まで残っていたものは声だった。小説=物語こそ人間にとって本当に必要なものだと言っているかのようだ。誰かに聞いてもらうこと、自分が存在することを主張するものとしての声が、人間にとって最後に必要なものなのかもしれない。僕は、ここに、いるよ・・・。そして、小説=物語もまた、誰かに読んでもらうことを求めている。聞いてもらうことを求めている。小説は、作者が自らの存在証明として書いた物語を読んでもらい、承認して欲しいと訴えかけているようだ。

この小説=物語が生まれるために無くてはならいものが、記憶であり、その集合体としての心である。主人公の女性は小説の消滅後に、書きかけの小説を苦労して完成させることができた。小説という形式が失われても「物語の記憶は、誰にも消せない」のである。僅かでも記憶が、心が残っている限り、人は物語を紡ぐことができる。そして、人は物語という灯りを頼りに人生を歩んでいくことができる。たとえ、それが絶望の未来であっても。

冒頭の話に戻る。理想的な死とは何か。それは、死後も誰かの心に残ることだと思う。主人公の女性は消滅の直前までR氏と会話することができた。R氏の声を聞き、R氏に声を届けることができた。最期の最期まで、自分という存在をR氏に認めてもらうことができたから(そして自分の消滅後もR氏の記憶に留まることを信じることができたから)、彼女は透明な心で「死」を迎えることができたのではないか。

理想的な死とは何か。それは、死の直前に自分の人生を肯定できることだ。記憶が、物語が無い世界には、そのカタルシスは訪れないと思う。

密やかな結晶 (講談社文庫)

密やかな結晶 (講談社文庫)