執事道とは品格と見つけたり/カズオ・イシグロ 『日の名残り』
日本人と英国人は良く似ている、こんな話をたまに耳にします。確かにお茶好きで島国だし、礼儀作法にうるさいところなど似ているところは多いかもしれません。それにアメリカやフランスと比べれば、イギリスは日本と似ていると言えそうです。
僕が日本人と英国人の気質が似ていると思ったのは、実はカズオ・イシグロさんの『日の名残り』という小説が最初だったと思います。もう大分前の話なので確証はありませんが、少なくてもここに描かれている英国紳士像に高校生の僕は共感を覚えたことだけは確かです。感情の起伏や物事の考え方など、自然に受け取ることが出来たのです。
とは言いつつ、現代のイギリスを代表する作家のブッカー賞受賞作を今更紹介するのは気が引けますが、間違いなく一度は読む価値のある作品です。それに今回再読してみて、1989年という、今から15年前の小説に古臭さはまったくありませんでした。勿論、作品自体が第一次世界大戦後の時代を主要な舞台とする話ですので、もともと今日的であることをウリにした小説ではありませんが、それを差し引いても、です。
小説は、スティーブンスという老年に達した執事が自動車旅行の道中で思い出す、在りし日の回想を中心に進行してきます。第一次世界大戦の混乱を収拾すべく外交に奔走するダーリントン卿に仕えるスティーブンスは、各国の要人が集う邸宅でのパーティーやレセプションを裏方として支えてきました。20名近い使用人を女中頭のミス・ケントンと共に束ねる彼の栄光の日々と、現在の落ちぶれた自分の姿。理想の英国紳士であり「道徳的巨人」として慕うかつての主・ダーリントン卿と、人が良いだけのアメリカ人実業家の現雇用主・ファラディ。そんな過去と現在の落差や変遷を通して、スティーブンスは「偉大な執事」とは何かを旅を通して考えることになります。年中無休の執事職を離れた数日の旅行は、彼を思索に誘います。
偉大な執事だと誰もが認める人々、たとえばミスター・マーシャルやミスター・レーンを見るにつけ、この二人と単なる有能な執事と違いは、「品格」という言葉で最もよく表現されるように思われるのです。(48p)
偉大な執事が偉大であるゆえんは、みずからの職業的あり方に常住し、最後の最後までそこに踏みとどまれることでしょう。外部の出来事には-それがどれほど意外でも、恐ろしくても、腹立たしくてもー動じません偉大な執事は、紳士がスーツを着るように執事職を身にまといます。・・・省略・・・それを脱ぐのは、みずから脱ごうと思ったとき以外にはなく、それは自分が完全に一人だけのときにかぎられます。(p61)
彼のストイックなまでの執事道は物語を通して、延々と続きます。彼は読者である僕達の前でも「執事職を身にまとい」、「完全に一人だけ」にはなりません。彼の独白から伝わるのは、ダーリントン卿への尊敬、執事職に対するプライド、過去の栄光ですが、人間の弱さや感情は殆ど表に出てきません。スティーブンスはプロ中のプロです。休暇中にもかかわらず、彼はどこまでも執事であり続けます。その「品格」のせいで一度ならず貴族だと勘違いされる始末です。
僕は、この昔かたぎの執事を通して、なぜか武士道を思い出しました。自分を押し殺して主に仕えること、ノブレスオブリージュ、義に殉じること、名誉を重んじるところ、惻隠の情など、彼が執事或いは紳士の徳として描き出したものを我々は新渡戸稲造の『武士道』に見つけることができます。高校生の僕が『日の名残り』に共感できたのは、武士道との類似点があったからかもしれません。
そして物語は、日本の武士道を共鳴するように、スティーブンスが仕えた本物の英国紳士たるダーリントン卿と、偉大な執事であった彼の父親が共に失意のうちに亡くなったことが彼の口から告げられます。一つの偉大な時代が終わったのです。
しかし、この物語は古きよき伝統が消えてゆく様子を描きながら、それを賞賛し惜しむだけの話ではありません。枯れた大木から小さな新芽が出ているように、新しい命の息吹もまた感じることができます。失われてしまったもの、まだ残っているもの、そしてこれからのこと。最後に語られる桟橋のエピソードがさわやかな読後感をもたらす、夕日のような美しい小説です。
- 作者: カズオイシグロ,Kazuo Ishiguro,土屋政雄
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NO CAT,NO LIFE!/川村元気 『世界から猫が消えたなら』
この話は小説なんだろうか?僕が読後に感じた疑問だ。何だか小説として備えていなければならないものが欠落している気がする。
携帯はその登場から、たったの二十年で人間を支配してしまった。なくてもよかったものが、たった二十年でなくてはならないものかのように人間を支配している。人は携帯を発明することにより、携帯を持たない不安も同時に発明してしまった。でも、そもそも手紙が登場したときもそうだったのかもしれない。インターネットだってそうだ。人間は何かを生み出すたびに、何かを失ってきたのだ。(p49)
- 作者: ヨースタイン・ゴルデル,須田朗,池田香代子
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そうだ、エジプトに行こう!/パウロ・コエーリョ 『アルケミスト 夢を旅した少年』
最近、仕事が忙しくてブログを更新できてませんでした。きっと仕事されてる方はみんな同じ条件だと思うのですが、平日にガシガシ更新されるブロガーさんが多くて感心しきりです。僕も無理のない範囲でがんばります。
「僕が真剣に自分の宝物を探している時、毎日が輝いている。それは、一瞬一瞬が宝物を見つけるという夢の一部だと知っているからだ。本気で宝物を探している時には、僕はその途中でたくさんのものを発見した。それは、羊飼いには不可能だと思えることに挑戦する勇気がなかったならば、決して発見することができなかったものだった」(p154~155)
アルケミスト―夢を旅した少年 (角川文庫―角川文庫ソフィア)
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憲法と国民国家と資本主義/内田樹 『憲法の「空語」を充たすために』
今日本で最も注目されている思想家の1人・内田樹の新著が「かもがわ出版」という京都の小さな出版社*1 から出されたということが、この本の全てを物語っています。
この『憲法の「空語」を充たすために』は、大手出版社から出すことができない程、過激な主張が満載なのです。安倍現首相の政権運営を批判し、自民党改憲案を扱き下ろします。試しにいくつか引用してみましょう。
現行憲法は軽く、自民党憲法は重い。現行憲法は総理大臣がその尊重擁護義務を怠ってもそれを「憲法違反だ」と指摘する人がひとりもいないほどに軽く、自民党憲法はそれに違背したものにどれほどの処罰が下るか想像すると寒気がするほどに重い。(p21)
現行憲法には国民の憲法尊重擁護義務規定が存在しません。当たり前ですが、それは制定主体が国民自身だからです。自分が制定したものを遵守しないはずがない、という自明の理によって国民の憲法尊重義務は言い落とされてる。でも、自民党改憲案はうっかりそれを書き足してしまったことによって、この憲法の制定主体が日本国民でないことを自分で暴露してしまった〔引用者註:自民党改憲案の制定主体は「この憲法草案を起草した人間たち」で、安倍首相を始め自民党の有力者を指す〕。(p43)
内田さんはこうした自民党の改憲案の異常さを、現行憲法や過去の世界史的憲法を引き合いに出しながら、一つひとつ説明します。そして、この改憲案が現実のものとなったとき、一体いかなる事態が出来するのかを説得力を持って描写します。
しかし、内田さんが本当に言いたいのは、自民党の改憲案の「グロテスクさ」ではありません。民主主義に逆行する自民党改憲案が起草された今の憲法を巡る状況こそ真に「グロテスク」なもので、問題の根は自民党にあるのではないと、私は理解しました。では、現行憲法がこれ程までに軽んじられている状況や、民主主義・立憲主義を棄て独裁国家を目指していると著者に言わしめる日本の政治空間の変容は何故起こったのでしょうか?
内田さんは別の場所でユダヤ的知性の特徴として「問題の次数を繰り上げる」ことを挙げています。これは当該の問題を一段高いところから眺めることで、その問題を含む関係性や構造を見通すことだと私は解釈しています。
自民党改憲案について「問題の次数を繰り上げる」ことで見えてくるのは、グローバル資本主義、日本人の総サラリーマン化、一億総懺悔の3点です。内田さんはこの全く関連性が無いキーワードで日本の政治状況を鋭く分析します。まるで三題噺のような手際のよさと意外性で、最後まで一気に読んでしまいました。相変わらず、誰でも知っていることから、「こんな話は聞いたことがない」という論を展開する内田節炸裂の一冊です。
*1:実は初めて聞いた出版社でした。しかし、本書に同封されていた出版案内からは、ジャーナリストや出版人の矜持がプンプンします。昔気質の硬派でカッコいい出版社だと思いました。がんばって欲しいです。
書物を焼く人間は、やがて人間を焼くことになる/レイ・ブラッドベリ 『華氏451度』
隣の芝生は青く見える-仕事と幸せと香川選手の移籍の話ー
今日のニュースを見ると、サッカー選手の香川真司さんが大活躍みたいですね。僕はサッカーに詳しくないので詳細は分からないのですが、以前所属していたマンチェスター・ユナイテッド(以下、マンU)とは別人のようで、水を得た魚のように生き生きしているとのことです。
文体よさらば/保坂和志 『書きあぐねている人のための小説入門』
前回のエントリでも書いたけど、ブログを始めてから文章について考えることが多くなった。僕は文章を書くのに、とても時間がかかる。挙句にあんまり上手くない。一体みんなどうやって文章を書いているんだろう?あのブロガーさんの個性的な文章は誰かモデルがいるのだろうか?そんなことを考えていたら、「文体」とは何だろう?という(割と当然な)疑問が湧いてきた。
一般的に文体と言ったら、敬体と常体の違いとか、句読点の多さとか、難しい言葉を多用するとか、断定口調だとか、いろんな構成要素があると思う。でも、作家の保坂和志さんはそんな一般の人(=僕)の認識を一刀両断に切り捨てる。曰く、
文体というと、言葉づかいが硬いとか柔らかいとか、センテンスが短くきびきびしているとか、ダラダラと長く続いているとかいう違いのように思われがちだが、これはあまりにも表面的、即物的な見方で、それを文体というのなら、誰でもテクニックさえ磨けば、「いい文体」「味のある文体」が書ける。しかし、それは花そのものでなく花の絵を見て花を描くという子どもの絵の域を出ない。(p142)
んー。そうか、僕が文体だと思っていたのは「表面的、即物的な見方」だったのか。啓蒙、啓蒙。でも、それなら文体とは一体何のことだろう?保坂さんは次のように説明する。
〔風景を書いた文章は:引用者註〕風景のすべてを書き尽くしているわけではなく、何を書いて何を書かないかの取捨選択がなされていて、その抜き出した風景をどういう風に並べると風景として再現されるかという出力の運動(これが直列にする作業だ)に基づいて書かれている。意外かも知れないが、これが文体の発生であって、私の考えでは、文体というのはこの作業の痕跡のことでしかない(だから翻訳でも十分に文体が分かる)。(p141)
小説において風景を書くということは、3次元の風景を文字という直線の流れに「強引に」並び替えることで、この風景をどのように書くかが作家の個性=文体なんだということ。目で見ている風景の「何を書いて何を書かないか」、どういう順序で見えるものを文章にしていくか、そういったことの無数の選択がその人の文体であるということなんだと思います。
勿論、これは小説における文体を説明した箇所だから、小説以外の文体には当てはまらないのかもしれない。でも、ここで述べられていることはすごく大事だと思った。保坂さんの文体の定義を自分なりに少し考えてみることにする。ここからは保坂モード。
例えば、ブログの文章を書くとき、どんなテーマを選ぶか、どういった切り口で文章を書くか、文章の組み立て方や論理構成はどうするか、何を引用するか、こういったことを突き詰めて考えれば、「何が好きか」「何を考えたいか」の結果になる。つまり、文章を書く時に頭に浮かぶ選択肢や決断は、自分が興味を持っている、あるいは持っていた事柄の積み重ねの結果であり、その延長線上にあるものが、今書かれつつある文章を規定しているんだと思う。
この文章を規定している「何が好きか」ということは過去の出来事が関係しているというのはさっき書いた。その人が辿ってきた歴史――その人がどんな出来事を経験して、どんな人や物事に出会ったのか――が、その人の興味関心に影響を与えているはずで、そうした出来事の積み重ねが「何が好きか」ということの判断材料になっている。だから、その人が主体的に判断していると思っているのは、過去の出来事の結果でしかない。主体性を基礎付けているのは過去の出来事に規定された選択肢と指向性だからだ。
しかし、そうだとすれば、その人が文章を書くときの判断基準――「何が好きか」「何を考えたいか」――は、過去に経験した出来事に大きな関係があるからこそ、逆説的に個性が生まれる余地がある。誰かと同じ人生を歩んだ人は絶対にいないわけで、あなたと似たような人生経験のある人はいても、まったく同じ人生を歩んだ人は、絶対にいない。あなたが考えたことは、あなたが考えたという事実によってユニークなものになる。あなたと同じ過去を持つ人がいないように、あなたと同じ文章の人もいないはずで、だからこそ希望がある。
こういうことを書くと身も蓋もないが、あなたが自分の自然な感情によって、自分を偽らずに文章を書くことができれば、それだけでオリジナルな文章になる。自分の文体になる。結局は自分と向き合うことが、自分らしい文章を書くこと、自分だけの文体を手に入れることに繋がる唯一の道だとしか言いようがない。
結局は今まで僕が文体だと思っていたものは「語り口」でしかなくて、本当の文体というのは、何を書き何を書かないかということの繰り返しのよって事後的に出現する砂浜の足跡みたいなものだと考えると少しは実像に近づいたかもしれない。
・・・保坂モード終了。結局、前回と同様に当たり前の結論に到達してしまった。もしかしたら、僕はずいぶんレベルの低いことを考えているのかも知れない。そうでないことを祈りたい。
ちなみに、小説家志望の方は今回引用した『書きあぐねている人のための小説入門』はすごくおすすめですよ。僕が読んだことのある小説作法の本で、小説家になれそうなのはこの本と、高橋源一郎さんの『一億三千万人のための小説教室』くらいだと思います。まぁ、作家でもない僕の言うことにどの程度の真実味があるかは、皆さんで判断してください。
一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))
- 作者: 高橋源一郎
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